戦国終焉後にあらわれた「陣形」
小笠原昨雲『侍用集』は原本はないものの、初見史料として承応2年(1653)版の存在が確認されています。
著者の昨雲は「一国ノ巨擘」(『功者書』)とまで絶賛された天才軍学者ですが、本書の由来として、源頼朝が天下を統治したという法を記す550巻の書を抜き書きしたものに、昨雲が自分の見解を加えて『私用集』を編纂したところ、これが神君家康公の耳に入り、『侍用集』と改名するよう伝えられたとされています。
近世に流派を起こした軍書のほとんどが似たようなことを言っているので、頼朝由来の件は簡単に首肯できませんが、本書は承応4年、万治5年(1658)、寛文4年(1664)にも版を重ねており、また越前二代藩主・松平直矩(1642-1695)による『松平大和守日記』寛文3年(1663)12月21日条に『軍法侍用集』を手に入れたことを「悦目」とする記事があることから、上級武士が学ぶための軍書として熱心に読まれていた事実を確かめられます。
由緒の真偽は不明ながら、徳川時代初期(まだ戦国武将の生き残りがたくさんいた頃)の上級武士に受け入れられたというのは、重要です。大坂が落城して元和偃武の時代になると、それまで理論としての体系がなく、口伝と実体験のみによって使われていた戦争の技術が、軍学としてあらわれるのです。戦国の古老がこれをどう眺めていたのかは別としてその『侍用集』に記される陣形(実際は隊形に相当)をいくらか紹介しましょう。
「飛鳥之備」。アスカではなくヒチョウの備(そなえ)と読みます。これは大軍相手に小勢で戦うときの陣形とされています。使用法の説明はありません。肝心なことが書かれていないのは、理論書として問題があるように感じますが、当時の軍学は「秘伝」を受け売りにする商いですから、「それはわが口から伝えよう」ということなのでしょう。すると本書は小笠原流軍学を宣伝するための見本紙だったと考えられます。
こちらは「雲流(うんりゅう)之備」。どうやって動いたのでしょう。想像するだけでわくわくしますが、どこまで実用的だったのかは不明です。だって戦国時代や朝鮮出兵など実際の戦争に使われた形跡がないんですから。
「流行(るぎょう)之備」。
これも扱うべき人数からして不明です。
ですが、これらを徳川時代の荒唐無稽な想像の産物と簡単に切って捨てるわけにはいきません。相応の説得力をもっていると戦国の古老からも一目置かれていなければ、上記のような“受け入れ”は起こりえないと思われるからです。ではここにどのような説得力があるのか。戦国の軍隊像を探るには、こうした視点から後世の文献を読み解いていく必要があるのではないでしょうか。
兵種別編成、軍役定書、備、陣形。これら無数の点と点を、これから線で結びつけていきましょう。
参考文献:古川哲史・羽賀久人・魚住孝至『戦国武士の心得―『軍法侍用集』の研究』(ぺりかん社)