伊東潤『天下人の茶』が誘うところ
2016/02/20
伊東潤『天下人の茶』(文藝春秋)──。
秀吉と利休。
ふたりは、雲の上にないものには見えないところで、恐るべき「侘」と向き合っていた。
ある作品が既存の限界点をはみ出て、超越的ななにかに結びつこうとする動き。それが重なりあう様子にわたしはジャンルの進化を見出す。進化の瞬間というのは、およそ遥かのち時間を経てからようやく「そうであった」とみえてくることがほとんどだ。わたしの研究でいうと、村上義清による兵種の連携する隊形がそれである。上田原の戦いで義清が新たな隊形で戦ったとき、それが軍事改革の瞬間だとは──当の義清本人を含めて──誰も気づいていなかった。同様の編成と戦術を引き継いだ武将たちにしても、眼前の合戦に勝利するため模倣するのが精一杯で、歴史的な位置づけなどは特に考えていなかった。それがいつの間にか徳川時代の軍隊構成をほぼ決定づけ、しかも400年以上の未来になってからやっと、中世最後の軍事改革として語るための言語的環境が認められてきたのである。特定の文化や歴史を追っていて、そうした起点を見出したとき、わたしは無上の喜びを感じる。その「起点」を小説で触れさせてくれたのが、伊東潤氏の『天下人の茶』であった。
わたしは本書を読み始めたとき、伊東さんが歴史小説という既存の枠組みを使い、なにかを試みようとしているらしいことを感じてはいた。それはカーレースの急カーブを見るようで、爆音を切り裂くようなタイヤのすり減る旋回音とともに、わが胸を躍らせた。そういう娯楽だと思って楽しんでいた。それで満足するところだった。ところが、違っていた。本種はさらにそれを悠然と飛び越えて、「なにか」の先にある見えざる世界へと突入してしまっているのだった。
読み進めるうち、爽快な高速車両と思われた本書はいつしか音速をも超えてしまっているようであった。音速を超えた先の光景は意外なほど地続きだが、それだけにそれが音速を超えたとはちょっと思われなかった。一旦本書を閉じて日常に戻っていなければ、今も気づいていなかったかもしれない。途中で休止した本書を再び手にして、一枚ずつ最後のページへと近づくに従い、朝霧が晴れたように自然と視界が変化するのが見えてきた。自分の無理解を告白するようだが、読み終えるまで間、自分のなかで何が起こっているのかちょっとわからなかった。だが、しばらくすると恐ろしいものを見てしまっているらしいことを感じさせられた。
本書が、昨今の歴史小説で求められる「真相」の説得力とか「群像劇」としての構成力といった面で、あたま二つほど飛び抜けているのは言うまでもない。今の時代に、娯楽小説としてこれを市場に乗せる力量ひとつとっても尋常ではないと思う。しかし本書が有する問題はそんな瑣末なところにあるのではなさそうだった。歴史小説でそれをやってしまうのか、それをやれてしまうのかという衝撃とともに、どうしてそれを見せてくれるのかという動揺が生じてしまったのである。単なる動揺ならまだいいだろう。けれども、その凄みは読後少しづつ重みを増し、少なくとも読み手のひとりを別世界へと置き去りにしてしまった。小説を読んでいてこれほど冷酷な仕打ちを受けたことはこれまでにない。これはある種、ひとつの起点となるだろう。
本書はごく平凡な歴史巨編として楽しむこともできる。視力がよければ、筆力の強さと妙技の秀逸さに目を奪われる楽しみに身を委ねることができる。だが、三次元的な視点を越え、縦横の歴史と左右の現況を意識すれば、作者がなにものをねじ伏せんとしているかが見えてしまう。そこに見えるものが本物かどうかはわからない。心理的錯覚か誇大妄想であるかもしれない。作者の真意は例えようもなく計り知れない。作者の術中に陥っているのか、あるいは無自覚に人をそこまで連れて行っているのかもわからない。ただ、誰も立ってはいけないところに立たされてしまったのは、わたし一人だけではないだろう。こんなところに一人で立っているなど、恐ろしくて仕方がない。普通の小説を楽しみたい人は、本書にあまり深く読み込んではいけないだろう。わたしは孤独でいるのかどうかすらわからないこの読後感がたまらなく不安である。