『別冊歴史REAL 大谷吉継と石田三成』に寄稿
2016/08/30
今回は『別冊歴史REAL 大谷吉継と石田三成』に記事を寄稿。中身は有名な男色の逸話に関するもの。ここでは、そこで書ききれなかった例の茶の湯のエピソードについて少し触れてみたい。
石田三成と大谷吉継はとても親密な関係にあったとみられることが多く、その証左とされる代表的エピソードに茶会の話がある。
諸将が茶会で同席したとき、茶の回し飲みがなされたが、吉継は重い皮膚病(当時の人々は感染力が高いものと思い込んでいた)を患っていて、自分の番に茶の中へ体液(膿、あるいは鼻水)を落としてしまった。それを見た諸将は次の者から口をつける振りだけしてそっとやり過ごした。だが、三成だけはこれに構わず堂々と茶を飲み干し、これに感じ入った吉継が三成のためなら生死を厭わずとの意を決したという。
印象深いエピソードなので、歴史好きの間ではよく話題にされる。
「三成は男気がある。それに引き換えほかの諸将は」
「いや、三成は気付かずに飲んでしまっただけではないか」
この逸話を紹介する媒体によっては、体液までは登場せず、単に吉継が口をつけただけで諸将が茶器を遠ざけたとされている。もしそちらが事実だとすれば、吉継が口をつけたあと誰も茶に口をつけないよう、一番最後の席に座ってもらうなど気の回しようはあったはずで、それがかなわなければ吉継のあとに並ぶ諸将は、覚悟を決めてから席につかなければ吉継ばかりか自身の面目をも失いかねない。そこに思い至るなら、吉継は自ら遠慮して口をつけず次にまわすなど、しかるべき対応策はいくらでもあったはずである。この段取りの悪さ、非現実的な風景から見てもあまり真実味のある逸話とは思われない。
より掘り下げてみよう。この逸話は元来ソース不明なのである。たとえば、明治44年(1911)に史論家の福本日南(1857~1921)が書いた『英雄論』においては、茶を飲み干したのは三成ではなく秀吉だったことになっている(「太閤、大谷吉隆の洟を啜る。」)。
しかも『英雄論』においては茶の回し飲みとする描写はなく、吉継は茶碗に落ちた体液を隠すため、茶を一気に飲み干している。おかげで「衆悟らず」であったが、秀吉だけは動揺する吉継の一部始終を見ていて、同じ茶碗を使い、「一気に嚥下」してそのまま何事もないように茶碗を使い続けて「吉継」を感激させたという。明治44年までこの逸話は、円座を組んで回し飲みする風景よりずっと現実的な話であった。ただ、この話だと秀吉と吉継の心のなかだけで終わっている話であり、後世に伝わる理由がすこし疑問である。吉継が「太閤殿下は立派なお方だ。私がこっそり鼻水を飲み干した茶碗を」などと軽々しく誰かに語り継いだのだとしたら、あまり格好いいものではない。それでイメージ操作をするため、周囲に見られていたとする設定に仕切りなおし、また秀吉よりも三成との関係のほうが美しいから、これを入れ替えるとする発想があれば、現在よく知られる例のエピソードに生まれ変わる。およそこうした経緯で現在の形に落ち着いたのではないだろうか。