天下静謐 – 乃至政彦Webサイト

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食の好みはコロコロ変わるね

      2018/03/25

♪女の子は恋ですぐに変わるクルクルしゃっふる〜という歌があるけれど、わが食の好みも簡単にあっさりと変わる。一年で変わることもあれば、半日で変わることもある。
そうすると、わたしの好物とはなんなんだろう。好物というもの自体、実は存在しないのかもしれない。

しかし、もしわたしが有名な歴史人物になって、ウィキペディアなどに詳細な記事が書かれたとして、だれかがどこかで「乃至さんは伊勢海老が好物」と証言したテキストが発掘されたら、わたしの好物は伊勢海老だったことにされるだろう。それはひとつの真実であったとしても、この情報から復元される人物像は、わたしが自分で考える人物像とは確実に別物として独立することになる。

歴史人物は往々にして、その特徴を構成する情報を(断片的に)集められ、キャラクター化していく。食べ物の好物ひとつにしても、子供のころから大人になるまでに変わらない人はいないだろうし、老化すればさらに変わるはずだが、成書に「かれは何々だった」と書かれてしまうと、それが実際の人生とは切り離されて、ひとつの概念として復元されてしまう。これは歴史に限ったことではなく、親しい友人や家族の間でもよくあることだ。忖度し、推察しても、予測していても人は変わっていくものだし、そうであるから生きている。

歴史というのは、良くも悪くもそうしたところが強くある。歴史として語られる情報は、すべて幻想であり、現実にいたることはない。現実にいたらしめるとすれば、それは過去を過去として語るのではなく、今と地続きに語り、過去に学ぶ(「過去を学ぶ」ではない)しかない。

客観を前提に語られる歴史は、パーツというより、どこまでも虚像を脱しきれない底なし沼である。自らの主観を鍛えながら、向き合い、対話する対象としての歴史は、潜在的に求められているのだろうが、今の世に適切な言論の場があるとは思えない。
適切な場というのは、歴史が人間の生死を左右する場である。

そのような場がないこと自体はとてもありがたいことだけども、歴史が刃物であることをここまで亡失されたのは、おそらく前代未聞のことで、無防備に見えて仕方がない。人類の文化や伝統、本能への仁義に外れているのではないかと、ぼんやりとした不安を覚える。

しかしこれはひとりで考えるには、大きすぎる問題である。杞憂を装っていたずらに大きな声をあげるのもみっともないので、この話はひとまずここまでにしておく。

莫言かな。

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