天下静謐 – 乃至政彦Webサイト

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知能の偏りに関する記憶

      2018/05/04

小学生のころ受けた知能検査の結果に、担任教師がとても驚いた。
学力が平均以下なのにも関わらず、知能指数が学年トップだったからだ。
中学生のときは、二位に下がった。トップは、成績学年一位の男子生徒で、かれはドラクエ2の「ふっかつのじゅもん」をメモに取らず暗記できる頭脳の持ち主だった。かれになら負けても仕方ないと思った。ちなみに当時、周囲はわたしを馬鹿カテゴリに入れていた。本当に超絶のバカだったからである。授業中にふらふらと外に出て、体育館でひとり成田三樹夫のモノマネに励んだり、登校中に野良犬と吠えあってみるなど、100パーセント純正の完全なるバカであった。しかも人を楽しませようとか、面白そうだからとかいうのではなく、なんとなく天がそういう姿を見たがっているようだという気がしたのでやっていた。どうみても完全にキチガイです本当にありがとうございました、であった(ちなみにさっきのトップ君からはあるとき、「お前は頭がいいのに、どうして異様な行動ばかりするんだ?」と問われた。しかし、異様な行動の理由はわたしもどう説明していいかわからなかった)。

教師から聞いた話だと、検査結果はどれも傑出していたが、記憶力と注意力だけは極端に低かったらしい。これはたしかに自覚があった。体育の授業で、グラウンドを一〇周まわるスピードを競うことがあり、同じクラスの誰かと二人で組み、相手がいつ一〇周目になるかを数えることになった。しかし、わたしは途中で相手が五周目にいるのか、三周目にいるのか、まったくわからなくなってしまった。わからなくなった理由もわからない。やがてまだ二周目にいるような気がしてきた。しかし、同時にスタートした何人かはすでに一〇周目を終えつつあったので、そんなはずはなかった。
今更、「何周目かわからなくなった」ということもできず、適当なところで「一〇周目です」と言って、かれをゴールさせた。ほんとうは八周目だったかもしれない。普通の子供は、異物にとても敏感だ。こんなインチキまがいのことをすればすぐ話題になる。こんなわたしが馬鹿カテゴリに放り込まれられるのも当然であった。

それにしても少年期、自分の挙動だけでなく、一部の知的能力はほんとうに変態レベルだったと今にして思う。図形を一目みるだけで、瞬時で脳内に数値があらわれ、別の角度からみると、どういう形状で、どこにどれほどの重さを備えているかなど、なんでも理解できた。また、論理のテストも問題を読む前に答えがわかるようなこともあった。
当時は自分のことを頭がいいとは一切思わなかったが、振り返ってみると、まったく勉強に役立たない、そして人から見てとても理解しにくい無意味な異能であった。問題を見ないで答えがわかるなど、自分でも不思議に思うぐらい説明不可能なことを時々平気でやっていた。あれは一体なんだったのだろう。いまだによくわからない。

しかし、学校の授業にさっぱりついていけず、成績もひどく悪かったので、高い(らしい)能力はまったくと言っていいほど受けられなかった。ファミコンのゲームを遊ぶとき、人より少しだけうまく謎を解いたり、マジカル頭脳パワーで所ジョージより早く正解を出せるぐらいで、しかも友達が多いわけではなかったから、こういう能力を見てくれる人がなく、自慢する先もないので、誰からも一目置かれるということはなかった。

大人になると、これらの能力が急速に衰えていった。これもなぜだかわからない。もし今同じ検査をやったら、散々な結果になるだろう。子供のときに「神童」と持て囃さることもなく、それどころか並以下と見られ、大人になってからは普通の平凡な人間になってしまった。まったく虚しいばかりである。天はあのタイミングでなんのため、役立たずな能力をわたしに授けてくださったのか、今もってわからない。

その後も、たまに変な能力が出ることはあった。たとえば、なぜかじゃんけんに必ず勝てる時期があって、二〇回ほどの連戦連勝を誇ったことがある。どれも大して利害のない勝負だった(職場でなにかの順番を決める程度のもの)からか、ここでなにか得をしたことはない。これが終わったのは「おめーのそれは狐憑きだよ」と笑う同僚とやったときで、このとき不意に「このじゃんけんだけは勝ちたい」と思ってしまった。欲が出た瞬間、負けて、一時的にあった不思議な力を失ってしまったのだ。

わたしは、超自然能力やオカルトというものに特別の関心がなく、特定の宗教に対する信仰もないけれども、これらの体験によって「天はたまにいたずらをなさる」ものだと思っている。もちろん、「天」がなさしめているかどうかはわからないし、ひょっとしたら、友人が言ったように、「狐」の仕業であるのかもしれない。

なんにしろ、これらの謎が答えを得られないまま終わるというのは、つまらないことだ。だから、わたしはこれを天が、「いたずらの本質を、こっそりと教えてくださったのではないか」と考えることにしている。

そのうち、こちらから天にいたずらを仕掛ける番がくるかもしれない。あるいは、いたずらに苦しんだ人々の「自分でも言語化できなかった声」を発掘していくことになるのかもしれない。

答えがないなら、自分で作ることだ。

 - 与太話