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偏愛と義侠の武将・上杉謙信

   

今は上杉謙信や直江兼続を形容する言葉として、「愛」と「義」が唱えられるようになって久しいです。
しかし耳障りのいい言葉を、あまり深く考えず歴史の人物にあてはめて、キレイ事を語る材料にしている感があり、個人的にはあまり好きになれません。直江兼続の「愛」の前立て兜にしても諸説ありますが、あれは「愛宕」様の「愛」とみるのが妥当です。兼続の主君・上杉景勝は「日之丸」の前立てを好みました。当時の陣立書を見ると景勝時代の旗本に「日之丸」と「愛宕」の牙旗が二つ並んで立てられています。この両者はセットだったことを考えると、景勝の家宰であった兼続の前立てもこの「愛宕」様だと受け止めていいでしょう。

もっとも彼ら自身が現代的な価値観で「愛」や「義」を標榜したことがありませんが、謙信は「筋目」のためなら、どこにだろうと味方に駆けつけると言っており、また武田信玄を批判する願文で自分の戦いがどれだけ正しいかを述べ、自分のする戦争は「順弓」だと強調しています。ここに戦争を正しいものと正しくないものとに分けようとする考えがうかがえます。現代的にいうなら「正戦」思想です。

謙信は正しい戦争をしようとします。戦国大名が「公儀」や「大途」というとき、それは常に大名の当主と宗家を示しました。自分が実力で運用する権力を、正統と称するために使っていたのです。ところが謙信が同じ言葉を使うとき、それは足利将軍・室町幕府を中心とする体制を指します。謙信にとって「公儀」は自分の政権ではなく、室町幕府による秩序と体制だったのです。自分のためではなく、常に誰かのために戦うことを建前にするのが謙信でした。

ところで、最近の謙信評はいささか厳しいものがあります。関東で略奪・出稼ぎ・人狩り・人身売買に奔走したイメージが強いのです。これらは現代の研究が作ってしまったフィクションですが、「愛」や「義」のイメージへのアンチテーゼとして使い勝手がいいので、一部で好んで使われています(詳細は『上杉謙信の夢と野望』で述べましたが、また遠からず説明するかもしれません)。

謙信はどちらかというと、人狩りや略奪を忌み嫌った人物です。だいたいそんなバカなことをやっている軍隊は肝心なときに統制が取れず、大負けするものです。そんなことで「正戦」を汚すことは、極力避けようとしています。「敵に塩を送る」の逸話もなぜか無償で塩を送ったイメージで伝わっていますが、初期の文献では「足元を見ていつもより高く売るな」と能登の塩を売る商人に価格規制をかけた逸話となっています。また、戦争捕虜を捕まえて大安売りしたという話も「人市」なる造語でもって語られることがありますが、話のもととなった史料を見ると事実は真逆で、戦争捕虜を得た味方が人身売買(身内から身代金を得るため)をしようとするのを低価格にさせて、儲けが出ないように規制しているようにしか読めません。

では謙信は弱者に優しい徳の将だったのかというと、そうではありません。むしろ破壊と虐殺を繰り返す恐ろしい大将でした。謙信は時として敵の城下を容赦なく放火しています。そして田畑や水道を使えないよう徹底的に打ち壊すこともありました。また、籠城する武士および奉公人を一人残らず撫で斬りにしたことまで、いくつかの史料に伝えられています。女子供を眼前で殺すこともあったようです。

なぜ謙信はこんな暴虐行為を行うのでしょうか。義将論で考えると難題になりますが、先入観を捨てれば単純明快に納得できる答えが出せます。謙信にとってすべての戦争は「正戦」だからです。

塩の価格をあげさせなかった謙信は何といったか。「塩や米ではなく、弓矢で戦おう」、経済封鎖ではなく物理的に戦争をしようと言っているのです。人身売買への規制も人民への思いやりからではなく、自身の名誉のため断行させたのでしょう。自分は私利私慾のため関東まで出向いているのではない。「筋目」のため戦っている。それを認めさせたい。これが謙信の「順弓」です。

幕府や国人衆を苦しめる「正しくない戦争」を「正しい戦争」です打ち破る。それが謙信の望みであり、邪魔する者は侍だろうと凡下だろうと許しません。遮る者には死あるのみです。ある意味そこには「義」があるでしょう。ただし、ウルトラマンや月光仮面のようなスーパーヒーローの「正義の味方」ではなく、ヤクザ的な「義侠」の「義」であろうと考えます。

ここには、『天地人』で阿部寛さんが演じたような温かみはありません。もちろん謙信が慈愛を見せることもありましたが、それは謙信のごく一側面です。特に景勝には過度の偏愛ぶりを見せましたが、裏を返せばほかで残酷な行いを繰り返しているからこそ、心を許せる数少ない身内を徹底的に愛し抜こうとしたのでしょう。そういう意味では謙信は「愛」に飢えた人だったわけで、現代的な「正義と博愛」ではなく、「義侠と偏愛」の武将だったといえるのではないでしょうか。

 - by乃至政彦 ,