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奪われた石田三成意見書

      2018/05/02

石田三成最期の手紙については、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』の第二部で、高橋陽介氏が詳述したが、この意見書は、一部の歴史学者から史料価値を疑われてきたものである。

しかしその根拠は、その他の石田三成書状に見える特徴から逸脱した表現が多く、違和感を覚えるという印象論に基づくものであり、論証的であるようには思われない。たしかに本書状は冗長で、いたく悲観的であり、いつものような簡素で高圧的な印象を与えない。だが、これはこのとき三成の置かれた立場と環境がそれまでと大きく異なっていることを前提におけば、解消される問題である。

本書で高橋陽介氏は、このときの上方西軍諸将の役割を明らかにした。西軍の主要人物には、軍事的職掌と立場の違い、権限の差異が存在していた。

高橋説の真髄のひとつは、この分析に成功したところにあるといってもいいだろう。

総大将毛利輝元、副将増田長盛、現地担当の長束正家・石田三成・大谷吉継・恵瓊。

かれらがいかなる職掌の範囲で連携を取り合おうとしたかは『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』で、詳しく述べられた。

‪役割分担が明らかになると、『古今消息集』の三成書状が、とても長文で、相手の感情に訴えかけ、かつまた謙譲の一人称が使われている理由も見えてくる。

書状は当事者の立場によって様式と言葉遣いが大きく変じる。三成はこのとき、過去よりも低い地位に落ちていながら、重大な局面に立ち会っていて、最善手を建言しなければならない状況にあった。本来の分限を超えてでも、上将(かつての朋輩)に重大な決断を求めるには、理性と感情両面に訴える必要があった。

そうしなければ、西軍の企てはそこですべて消え失せ、二度と立ち上がれないほどの敗北を喫することが明らかだった。現場だけがそれを理解していた。だから三成は必死の思いで意見書をしたためたのだ。

また、この書状は使者を伴わない密書であるためだろう。その内容は受け手がなんの補足説明を付け足さずとも一目見てわかるよう、直接的で具体的な書き方がなされている。

しかし、時すでに遅し──であった。
石田三成意見書を携えた使者は、しかるべき相手のもとに赴く途中、一四日の夜、東軍に捕まってしまったのだ(『武徳安民記』)。すでに戦況は切迫しており、この日もし手紙が東軍の手を免れたとしても、その後の展開は変わらなかったと思われる。そうなれば、逆にこの書状は永遠に表に現れなかったかもしれない。

ともあれ原本は失われ、その写しが今に伝えられることとなった。それが『古今消息集』の石田三成意見書である。

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