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「ポスト・モダン戦争」と「邪悪な物語」

   

戦争および戦争学に特別の関心を寄せるものではないが、軍事関係の書籍で興味深い文章を見つけ、示唆を受けたので、こちらに少し雑感を書き留めておきたい。引用元は石津朋之氏の『戦争学原論』(筑摩選書)。

 

 また、近年の湾岸戦争やイラク戦争などは、宇宙空間やサイバー空間を含めたハイテク兵器の運用、そしてマスメディアによる国内、国際世論の操作及び誘導といった意味を含めて、当事者間のまさに国家を挙げての総力戦であったと言えよう。もうこれ以上の空間が存在し得ないグローバリゼーションの時代だからこそ、今日、逆に早急な軍事力の統合化が唱えられている。かつてカール・シュミットは『陸と海と──世界史的一考察』という著作を世に問うたが、今日では、陸と海と空と、宇宙とサイバー空間と、まさに戦闘空間が統合しつつあるのである。(224P) 

あらゆる問題がお互いに望む望まないにかかわらず、絡みあう戦争の時代となりつつある。しかし、これは何も戦争に限ったことではない。歴史観と歴史観や言葉と言葉のメタにも望まないもの同士の接触はある。
 

 確かに今日の戦争は、例えば実際に戦う兵士の数、戦車や航空機に代表される装備品の数が顕著に減少しているため、一見、戦争への国家や国民の直接的な関与の程度は低下しているように思えるが、実は、こうした軍事力を支えるための経済力、財政力、技術力、さらには国民の支持や道義力といった不可測で間接的な関与も、国家の総力を必要とするものである。また、軍事の領域に限定しても、いわゆる「尾(テイル)」と表現される戦争のロジスティクスの重要性を考えれば、今日の戦争の様相こそ、まさに総力戦の名に相応しい事象である。
 二十世紀の戦争は、いうなれば「戦争の全体主義制度」の完成と表現できる。これは、民主主義国家であれ独裁主義国家であれ、その政体に関係なく同様に見られた現象である。また、とりわけ核兵器の登場により、二十世紀の人々は常に臨戦態勢に置かれることになった。アーノルド・トインビーは「ポスト・モダン」という表現を最初に用いた人物とされるが、トインビーにとっては第一次世界大戦こそ、最初のポスト・モダン戦争であった(224-225P) 

ポスト・モダンと呼ばれる脱近代は、社会を統制する意思の結果として生じたひとつの現象なのだろう。人間は時間を支配しようとして暦や時計をつくったはずが、かえって時間に支配される生き物になってしまった。優れた為政者が自己の欲求よりも社会の欲求に隷属することで、その実力を発揮する姿は歴史にもしばしば見られる。よく支配する・統制する先には、相手からも支配される・統制されることを受け入れるおのれが待っている。望まない統制を強いるものは、とくに主体のない、言葉も与えられない何かであったりする。それを「何か」のままにではなく、名前をあたえ、概念として把握し、人々の言葉でもって理解しなければ、われわれは得体のしれない「何か」に動かされる家畜と化してしまう。単なる家畜であればまだしも、そこに悪意をもった部外者があらわれたとき、これに抗する力を備えておく必要があるだろう。

もうひとつ別のところからだが、気になる記述を引用する。大澤真幸氏の「自己の不在を生きることは可能か」から。
 

 アメリカの軍隊と政府は、アメリカを含む先進国の人々がテロリストの物語に説得されやすいことに悩んでいる。つまり、IslamicStateやアルカイダが唱える物語に魅了され、ISやアルカイダを応援し、ときに自らそれらの一員になりたいと思うようになるアメリカ人や軍人がたくさんいることに困っているのだ。DARPAの物語分析は、アメリカ人を、テロリストの「邪悪な物語」から守ることを目的としている。(講談社『本』平成27年10月号56P) 

わたしがポスト・モダンの時代にもっとも危惧しているのは、この「邪悪な物語」がもたらす恐怖と実害である。本当にその物語が邪悪かどうか別として、国家や社会そのものにしかるべき物語が不在であれば、そこに安易な物語が生じやすい。それが単なる娯楽であればまだしも、深刻な問題を誘発するものがあふれるの極めて危険である。現代日本人も、免疫力として歴史と物語の意義を問い直す必要があるだろう。

なお、今日のブログに特に主張や結論はない。いつものことだが。

 - by乃至政彦