天下静謐

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1月21日は謙信公誕生日です

   

享禄3年1月21日、長尾為景の実子として生まれた上杉謙信は、弱冠19歳にて兄から越後守護代を譲られるとこになり、さらにその後は越後国主として内外に認められ、主筋にあたる関東管領上杉氏よりその名跡を継承しました。その間、長尾虎千代、長尾景虎(一時宗心)、上杉政虎、上杉輝虎(一時旱虎)、上杉謙信(不識院、不識庵)へと名前を変えていきます。
幼名の虎千代は当時の史料で裏付けが取れませんが、『上杉家御年譜』など米沢藩の正式な記録に記されているものです。猿松と称したとする異説もありますが、寅年生まれの謙信なら虎に因む幼名が付けられたと見るのが妥当でしょう。
元服してからは仮名を平三、実名を景虎と名乗りました。海音寺潮五郎の小説では喜平次景虎とされていますが、喜平次は次代の景勝が使った仮名で、正確にはやはり平三です。謙信の兄弟姉妹で名前のわかっているのは、兄の弥六郎晴景、姉妹の道五と道八の三人で、姉の仙洞院は実名綾とされますが、まだ確かな史料に裏付けが認められているわけではなさそうです。
謙信にはもう一人年の近い兄がいたとされますが、早世したと見られます。
謙信はその後、弾正少弼の官途を称します。父の為景が弾正左衛門尉を称したことに因むのでしょう。
やがて謙信は上洛中に大徳寺で宗心の法号を授かり、しばらく長尾宗心の名を使います。これは引退の準備であったようですが、思うようにいかず、周囲の要請で現役に引き戻されてしまいます。
やがて先ほど記したように関東の上杉憲政からその名字を与えられ、また政の一文字を受けて、上杉政虎と氏名を改めます。
余談ながら、わたし乃至政彦の政は、これにあやかり、よるすべを失いつつある守るべきものの業を背負う気持ちで使わせてもらっているものです。
それからほどなくして謙信は、将軍足利義輝から輝の一文字を受けて、輝虎へと名乗りを変えます。義輝死後は一時的に旱虎の署名を使っていますが、義輝生前に衰えた幕府を再興できなかったことへの悔悟の念を感じます。
そして相模北条氏から養子を迎え入れると、再び法号を得ます。不識庵謙信。
院や軒でなく庵なのは父長尾為景が紋竹庵と称したものに倣ったのでしょうか。庵はこれらよりいくらか謙遜気味の響きがあるので、周りは気を使ったらしく、謙信宛の手紙に不識庵でなく「不識院」と記したものが見えます。死後、謙信は「不識院殿真光謙信」の戒名で呼ばれました。

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